『誰にもわかるハイデガー』は誰にでもわかるのか?
唯野教授って、だれ?
本書は筒井康隆が1990年に書いた『文学部唯野教授』という小説に紐付いた「唯野教授の最終講」という講演を文字起こししたものです。
私はこの小説を知らなかったので、ハイデガーを研究している唯野教授が死に際して、筒井康隆に何か遺したの?そしてその話を、筒井康隆が書くの?それとも、筒井康隆は作家をするときのペンネームで、大学教授としての一面を持ってるの?と、ちょっと混乱しました。
いや、ただそれだけの話です(笑)。
とっつきにくい学問、哲学
さて本題。
リベラルアーツって面白そう、哲学をやってみたい。そう思ってはみたものの、哲学ほどどこから手を付けたらよいかわからない学問もありません。
歴史を知りたいときは簡単、ローマ時代から第二次世界大戦くらいまで通した本を読めば興味の対象は絞れます。もしルネサンス期に興味を持ったのなら、その時代について書かれた本読み、メディチ家やダヴィンチの本を読めば一通りの知識は得られます。
宇宙の始まりを知りたければやはり入門書を読んで、物理学、素粒子、ひも理論等と進んでいくのでしょうか。少なくとも素人なりにある程度の道筋は見出せます。
でも、哲学ときたら…。まず誰が何をどんなことを言っているのかもイマイチわかりません。超人?実在論?無知の知?イデア?なにそれおいしいの?
このように言葉からして定義が分からない言葉だらけなので、日常的にこれは!などとはなりませんね。
入口で躓き、何とか潜り込んだ先も大迷路。哲学書の本棚の前に立ちハイデガーの本を探すと、その厚さと文字の細かさに恐れおののき棚にしまい、「よくわかる」「まんがでわかる」系の本を手に取って、いやこれじゃわからんだろうとまたしまい。結局ちょうどよさそうなものがなかなかありません。
そんななか、「誰にもわかる」系ではありつつも、筒井先生なら!と飛びついたのが本書です。
「誰にもわかる」のか?
内容は、タイトルにあるように「誰にもわかる」ほどまでは簡単ではありません。書中の解説にもありますが、ハイデガー自身が「時間」の部分について書くことを諦めてしまっているので、読者はもはや、推測することしかできません。
ですが、本書はとても多くの専門用語を引き合いに出しつつ、とても分かりやすく説明してくれています。そのため、ハイデガー哲学のエッセンスを抽出しつつ、かなりのところ分かりやすい講義になっていると感じました。
哲学なんて、正解のないような難しいことを難しい用語を使って難しく語る学問です。少なくとも素養のない一般人からしてみれば…。そんな哲学、ハイデガーの言わんとすることを、このボリュームの本でザックリ掴めるということはありがたいこと。
ハイデガー概要の概要
折角なので、ザックリ掴んだことを、さらにザックリと整理してみたいと思います。ちゃんと整理して頭の中にとどめておけば、何かの拍子に思い当って、哲学できるかもしれませんからね。
それではやってみたいと思います。
『存在と時間』の「存在」まとめ
現存在としての人間は、常に死と向き合うのが本来。これから逃れようとするのは非本来的なこと。
現存在としての人間は死という不安から逃れるため、意味のない会話(空談)や意味のないブログ(空文)により、共現存在である他人との平均的日常性の中に埋没する。
これが頽落という現象ですが、ハイデガーによれば、これは必ずしも悪い意味ではないとのこと。非本来的に平均性、日常性に陥るのは現存在としての人間としてあたりまえのことなのだとか。
ただこれは本来性ではないですから、ふとした瞬間に不安になり、死を意識してしまいます。死というのが本来性ですから、不安を抱く、死を意識するというのも本来性です。
この本来性、不安にどう対処したらよいか、それはそれは、死を了解するということになります。死に先駆けて了解するので、これを先駆的了解といいます。
ここまでが『存在と時間』の「存在」の部分です。いかがでしたでしょうか。
まとめ的なもの
哲学は色々なものとくっついて、「法哲学」「政治哲学」「社会哲学」「経営哲学」、色々あります。でも、「死」と向き合うというのが一番哲学っぽいですね。この本を読んで、私がブログを書く理由もわかりました(笑)。
これからは空文ばかり書いていないで先駆的了解を得られるように、日々精進していきたいと思います(笑)。