『コンビニ人間』に人間社会の縮図を見た。
「コンビニ」と「人間」
今日ご紹介するのは、第155回芥川賞受賞作品の『コンビニ人間』。
タイトル買い、ジャケ買いです。
「コンビニ」と「人間」が合わさってるなんて、どんな内容だろう。
便利な人間なのか、コンビニ的な人間なのか。
畳でできたビルのようなものからよくわからないものがにょきにょき、もくもく、だらだらしている表紙。
「読みたい!」と思わせるには十分です。
ページ数もないので電車の往復で読めてしまうボリューム感。
と言いながら、これまた数か月積読されていましたが。
本日は小説ですが【ネタバレあり】ですので、まだ読んでいない方はご了承ください。
全く予想外な世界感
キャッチ―(死語)なタイトルにポップな表紙。
裏表紙には、「婚活目当ての新入り」なんて書いてあるので、ライトな恋愛小説かななんて予想をしていました。
この予想は、読み始めてすぐに打ち砕かれます。
コンビニでのバイトから物語は始まりますが、すぐに主人公の生い立ちが明らかになり、「あぁ…」となります。
ひょんな出来事からコンビニで働くことになり、そこに居心地の良さを感じ、働き続けて18年。
「普通」とは何か?と帯に書かれていますが、まさに、読んでいる最中ずっと、「普通」とは何か考えさせられ続けます。
特に白羽弟の鬼嫁は、完全なる普通人。
全てについて、マニュアルに適合しているかどうかという視点からの物言いなのです。
『コンビニ人間』は人間社会の縮図
タイトルの『コンビニ人間』は、直接的には主人公を指しますが、それだけではないと感じました。
コンビニ人間の定義としては、2つあるでしょうか。
- 主人公の自覚としてのコンビニ人間
- マニュアル人間の比喩としてのコンビニ人間
後者の方は、おそらく現代社会に生きる人類全体を指しています。
いや、白羽が言うように、縄文時代から人類はコンビニ人間だったのかもしれません。
人間社会の常識というマニュアルがあって、これに適合できないとシフトから外される。
たまたま現代にその縮図のようなコンビニエンスストアができたので、このような小説がすごく的を得ているように思えます。
でも、実は人類は元々コンビニ人間だったのでしょう。
誰しもコンビニ人間か
解説にもありましたが、現代は多様性の時代だなどと言われながら、実際にはその逆を行っています。
国際政治は自国ファースト、ナショナリズム、ポピュリズム。
METOO運動もいつの間にか正しさを押し付けるばかりの人たちが参加して、ポリコレ棒を振り回しています。
セクハラやパワハラも同じ構造で、もちろん悪いことなのですが、あれもこれも一括りにセクハラ、パワハラという人が増えてきました。
職場でもセクハラやパワハラは敏感になっていますが、正しさを追い求めすぎると、息苦しいですね。
正しいとしても、価値観の押し付けは息苦しいのです。
でも、ポリティカルコレクトネスという言葉は最近のものですが、この構図自体は昔からあったもの。
過去、歴史の中では村八分や魔女裁判はポリコレと同じ構図でしょう。
正しさのマジョリティから外れるということは、マニュアルに従わないということですから、シフトから外されます。
書中、主人公の友人から放たれる言葉とその後の反応も、「こちら側」と「あちら側」の仕分け作業。
彼女らもより大きなくくりではあるものの、コンビニ人間であることに変わりはありません。
白羽とはなんだったのか
「婚活目的の新入り男性・白羽」とはなんだったのか。
主人公と同じようにマイノリティでありつつも、主人公とは違う。
主人公のように自身に意見がなく、指示を与えてくれる存在であるコンビニに居心地の良さを感じるわけでもない。
マイノリティゆえに村八分にあい、プライバシーをはぎ取られた結果、普通に対する憎悪を抱いている。
にもかかわらず、彼らを見返す方法として口にする言葉はマジョリティ側のそれ。
あらゆる面で他責である彼の言葉は、常に私の心をざわつかせました。
でも、ここまで極端ではないですが、こういう人、いますよね。
まとめ的なもの
久しぶりの現代小説、芥川賞。
心を揺さぶられながらも、楽しく読まさせていただきました。
主人公の妙に合理主義でさばさばしたものの考え方は、意外と共感できました。
共感力皆無な主人公で、あまり共感したくはない主人公ではありますが…。
他人の目より自分の目、自分にあった生き方って大事です。
それが一見普通でないからといって、周りが勝手にそれを不幸せ扱いするものでもない。
そんなことを考えさせられました。
でも、ストーリーは至ってポップでコミカル。
オススメの一冊です。